1月号目次
閻魔帳
創立90周年を迎えた創価学会の活動大綱が示す勢力後退/段 勲
特集/『AERA』新連載「池田大作研究」から見えるもの
池田大作はイエス・キリスト? 『AERA』佐藤優氏連載のお粗末さ/藤倉善郎
『アエラ』で突如、始まった佐藤優の集中連載が目指す「池田本仏論」の再強化/古川利明
創価学会の混乱と混迷を映し出す佐藤連載──宗教的スタンダードか徒花か/乙骨正生
- 連載
信濃町探偵団──創価学会最新動向
「公明党と創価学会」を考える(第3回)
竹入公明党委員長の提案で国会正常化(1)/平野貞夫
ナニワの虫眼鏡(第7回)
大阪市を再び襲う“悪い夢”/吉富有治
新・現代の眼(第41回)
乃公出でずんば蒼生を如何せん/菅野 完
ヨーロッパ・カルト事情(261)
セクト的逸脱対策警戒関係省庁本部(MIVILUDES)廃止か(3)/広岡裕児
執筆者紹介 バックナンバー一覧 編集後記
編集後記から
新年あけましておめでとうございます。2020(令和2)年の年明けを前にした昨年末、衆院内閣委員長・内閣府のIR担当副大臣だった秋元司代議士が、東京地検特捜部に収賄容疑で逮捕されました。博打を解禁するIR法案の審議をたった6時間で打ち切り、強行採決した秋元委員長。その悪しき政治姿勢については、小誌も、以前から統一教会(現・家庭連合)との関係で、厳しい批判を浴びせていただけに、ようやくその悪事の一端が表面化したかとの感慨を覚えざるをえません。
公明党の佐竹としこ江東区議(当時)の17年10月21日付ホームページに、「自民党公認・公明党推薦の『あきもと司候補』の打ち上げ遊説に、公明党細田都議を始め区議会議員も参加」「候補からも比例区は公明党も…、選挙区はどうぞ勝たせて下さい︎‼と。江東区のみなさん、選挙区は『あきもと司』比例区は『公明党』よろしくお願いしま~す」とあるように、公明党は衆院選に際して秋元候補を推薦し熱烈に支援しており、多くの創価学会員が秋元候補に投票したものとみられています。
その秋元代議士が推進したIR法案に関して公明党は、IR法案の前提となる16年12月に行われたカジノ解禁法の衆院本会議採決では、自主投票として33人中11人が反対していたにもかかわらず、18年6月のIR法案の衆院本会議採決では、党議拘束をかけ出席した27人全員が賛成しました。この度、秋元代議士が収賄容疑で逮捕され、IR疑獄として他の国会議員にも波及する様相を見せるなど、莫大な利権を生み出すIRの闇が明らかになりつつあるにもかかわらず、公明党は山口代表が「事案の解明が必要」というだけで、宗教政党が博打を容認する異常性はさておき、IR法案成立に寄与した自らの責任についてすらだんまりを決め込んでいるのですから、呆れる他ありません。
統一教会との関係を取りざたされた政治家についていえば、昨年は、鈴木エイト氏が小誌で何度も追及を続けていた菅原一秀代議士が、9月の内閣改造で経済産業大臣に登用された直後に、公選法違反の疑いが噴出、わずか1カ月半で大臣を辞任しましたが、まだまだ関係の深い議員もいます。
小誌は、今後とも統一教会問題や、創価学会問題をはじめとする宗教と政治、宗教と社会の事実と真実を追求し続けます。今年もよろしくお願いいたします。
特集/『AERA』新連載「池田大作研究」から見えるもの
池田大作はイエス・キリスト? 『AERA』佐藤優氏連載のお粗末さ
藤倉善郎
ジャーナリスト
『AERA』(2019年12月30日・2020年1月6日合併号)で、元外交官で作家の佐藤優氏による連載〈池田大作研究 世界宗教への道を追う〉がスタートした。〈池田大作。その名は著名ながら実像を知る人は少ない〉というリード文から始まる連載第1回は、この連載で展開される予定の論考の方法論を宣言する内容だ。
記事の小見出しに〈公式サイトや機関紙 公開情報をソースに〉とある。全150巻の『池田大作全集』や創価学会ウェブサイト、機関紙『聖教新聞』を基本ソースとして連載を執筆していくのだという。
〈真偽が不確かな伝聞情報よりも公式文書を分析する方が、調査対象の内在的論理をつかむのに適切であると外務省主任分析官をつとめていたときの経験から筆者は確信している〉(記事より)
社会的問題を引き起こし批判を浴びるカルト的な集団の実像を知る上では、教団の「公式発表」に依存すべきではない。「公式発表」が真実である保証はないし、それ以外の情報真偽が不確かなら取材や調査で確かめればいい。
オウム真理教をめぐっては複数の宗教学者が教団側の「公式発表」に依存して、その思想を評論することで教団を擁護し宣伝に加担してきた。佐藤氏の方法論の危うさは、この歴史を見れば明らかだ。
本稿執筆時点で『AERA』での佐藤氏の連載はまだ第1回目が掲載されたばかり。まだ具体的内容に踏み込んでおらず方法論の提示のみだが、今後の連載の大前提となるこの方法論の問題を考えてみたい。
宗教学者たちの失態
宗教集団において「思想」とは、教義や公式文書として言語化されるものばかりではない。宗教とは実践者の集団だ。教団は様々な行動をとる。またその行動を正当化したり隠蔽したりし、あるいは信者に様々な行動を奨励する。その行動様式には、必ずしも文書化されない集団の思想・論理がある。特に社会的問題を抱え批判を浴びる宗教集団は、この行動様式そのものが社会に害をなしており、教祖や教団を評価する際に欠かせない要素になる。
単純な話だ。オウム真理教の公式発表文書に「サリンを撒いて麻原尊師を日本の王様にしよう」などとは書かれていない。「公式発表」されてきたオウムの思想や論理は飽くまでも「宗教」としての論理や修行、麻原の能力などだ。宗教法人の認証を得た1988年8月より前に起こっていた死亡事件・殺人事件2件(1件は後年も立件されず)は、教団は「公式発表」していない。95年の警察の強制捜査と幹部らの逮捕によって発覚したものだ。
教団の「公式発表」に依存して教団を擁護したり宣伝したりしてきた宗教学者たちのうち、中沢新一氏は89年『SPA!』(12月6日号)で「〝狂気〟がなければ宗教じゃない」などというタイトルで麻原と対談。坂本弁護士一家殺害事件への関与を否定する麻原の「公式」の発言を受けて、同事件についてはそれ以上「立入りません」と発言。その上で、こう語っている。
〈宗教がそのニヒリズムを突き破って、生命と意識の根源にたどりつこうとするならば、どうしてもそれは反社会性や、狂気としての性格を帯びるようになるのではないでしょうか。ですから、その点については、オウム真理教が主張していることは、基本的に、まちがっていないと思います〉(記事より)
山折哲雄氏は92年の『別冊太陽』(77号)で麻原と対談し、〈そこが「オウム真理教」のいいところですね。あくまで求道者というところがね〉とオウムの修行や思想を好意的に評価してみせた。
島田裕巳氏は、地下鉄サリン事件直前に発行された『宝島』(95年3月号)で、すでにサリン製造工場なのではないかと疑われていたオウムの「第7サティアン」(山梨県上九一色村=当時)の視察レポートを執筆した。実際には、サリンプラントをハリボテのシヴァ神像で隠した偽装宗教施設だったが、島田氏は『宝島』でこう書いた。
〈第7サティアンがサリンを製造するための秘密工場であるかのような憶測もされているようだが、宗教施設であることは間違いなかった〉(記事より)
直後の3月20日。東京の地下鉄にサリンが撒かれ、死者13名、負傷者6000名以上という未曾有の大惨事が引き起こされている。
内在的理解への反省
坂本弁護士一家殺害事件は当時「失踪」とされていたが、オウム真理教被害者の会(現・家族の会)関係者などは当初からオウムの関与を指摘していた。第7サティアンについては95年1月1日に『読売新聞』が、教団名は出さなかったものの上九一色村でサリン製造の残留物が検出されたことをスクープしていた。
いずれもその時点では第三者が客観的に真偽を判定することは難しかっただろう。しかし少なくとも事実である可能性が残っている状態で、それを度外視し、「公式発表」を無批判に受け入れ教団の代弁者となったことは軽率としか言いようがない。
いずれも極端に浅薄な「メディア学者」たちの所業だ。彼らはいずれもまともな総括や反省は示していない。
一方で宗教社会学者たちの間ではオウム事件以降、宗教研究の方法論への自省的な議論が起こった。信者等への聞き取りを通じて当事者のリアリティを重視する「内在的理解」という方法論への批判だ。研究対象を批判するかどうかは別として、当事者が語る内容を客観的に捉えるための批判的視点の重要性が見直された。
佐藤氏の連載では「内在的論理」という言葉が使われているが、オウム事件以降の宗教社会学における議論を踏まえると「いまさらそこ?」といった感を拭えない。
テロ宗教だけの問題ではない
創価学会は強引な折伏、日本共産党・宮本顕治宅盗聴事件、公明党との関係における政教一致問題、言論出版妨害事件など、様々な社会問題や事件を引き起こしてきた。テロでなくとも、十分に社会的問題を抱えた宗教団体だ。
佐藤氏は『AERA』の記事でこう書いている。
〈日蓮仏法の思想を普遍的なヒューマニズムの哲学に転換するというアプローチを池田は取り、今日に至っているのである〉
右に挙げた事件や問題は全て、その池田会長時代の創価学会で起こったものだ。これのどこがヒューマニズムなのか。「公式」の思想と実際の行動が乖離している以上、「公式」に語られた思想に特化して評価することなど無意味だろう。
むしろ、社会的に問題がある実態から目を逸らさせようとするもので、オウムをヨイショしてきた宗教学者たちと大差がない。
キリスト教と創価学会
佐藤氏は同連載で、「ポスト池田」論に異を唱える形でキリスト教を引き合いに出す。
〈キリスト教において「ポスト・キリスト時代」なるものは存在しない。例えば、イエス・キリスト以外の新たな救世主が存在するというようなことを主張する宗教は、キリスト教を自称しても、キリスト教ではない。(略)同様に「ポスト池田時代」という言説自体が、創価学会の公理系を逸脱しているのである〉(記事より)
池田氏を創価学会におけるイエス・キリストだというのか。
イエスがその思想に依拠して評価されるのは、彼の人生がすでに歴史の遥か彼方にあるからだ。例えばセクハラや児童虐待といった問題を抱えているのは、カトリック教団や個別の教会という現代のナマモノである人間たちだ。イエスがそれらを作ったわけでもない。キリスト教組織がどのようなスキャンダルに見舞われようと、それをイエスのせいだと非難する人は非クリスチャンの中にもいないだろう。
しかし新興宗教は違う。事実上の教祖と言える強烈なリーダーが直接作り上げてきた教団がいまナマモノとして活動している。それが問題を起こしてきたのは、指導者に問題があるからだ。
池田氏や創価学会の「公式文書」は、断片的にしか現存しない2000年前の古文書とは違う。Amazonや図書館でだいたい揃う。
全体像を検証できるのだから、客観性を重視して扱えば矛盾や欺瞞の有無を確認することは難しくない。それが新興宗教だ。しかし佐藤氏の記事にこうした視点もない。
同連載で佐藤氏は、外交官時代の「インテリジェンス業務」では人間関係を用いて秘密情報を得る「ヒュミント」なる手法を得意としていたと書いている。なのに同連載では公刊文書を分析する「オシント」の手法をとると宣言している。〈国家が真実を全て開示することはないが、公式の場で積極的な虚偽情報を流すことはほとんどない〉(記事より)からだそうだ。オシントが得意なら、創価学会関係者と仲良くして秘密情報でも引っ張ってくればいいのに。
カルト集団が公式文書で積極的な虚偽情報を流すことなど珍しくない。「インテリジェンス」ではなくカルト情報をめぐる「リテラシー」の問題だ。
これを掲載している『AERA』編集部の良識を疑う。
信濃町探偵団──創価学会最新動向
- 財務の功徳強調!
・12月23日付『聖教新聞』「創立90周年を勝ち開く!座談会」「供養の功徳は無量」
「原田(会長)本年の財務の納金を無事故で終了することができました。広宣流布のため、真心で取り組んでくださった全ての方々に、心から感謝申し上げます。(中略)
長谷川(理事長)今日、広宣流布を現実の上で進めているのは創価学会以外にありません。御供養の功徳は計り知れないと、拝されます。
原田 多くの同志の方々が真心の財務をもって学会を守り、広布の勝利の道を開いてくださっています。お一人お一人が、大福運に包まれ、勝利の人生を歩みゆかれることを、さらに真剣に祈ってまいります」
※年末の財務が無事故で終わったとして、学会員に謝意を表する原田会長。自公連立政権の政策により、格差が拡大、消費税の増税などで景気が低迷、厳しい経済状況にある学会員を意識してか、ことさら「財務」の功徳を強調する首脳幹部。創価学会内部からは、去年の「財務」は例年を大幅に下回ったとの情報もあるだけに、「功徳」「利益」を強調する必要があるのだろう。
昨年は4月・7月の統一地方選挙と参院選で、学会員は集票に駆けずり回った。選挙が終わったら、11月の「世界聖教会館」完成に向けてのかつてない規模の「啓蒙」と称する聖教新聞の拡販が待っていた。そして拡販が終了すれば、「財務」と称する金集めである。学会員から吸い上げた「財務」で高給を食む原田会長・長谷川理事長をはじめとする職業幹部からハッパをかけられ、金を出し、新聞を買い、票集めに汗をかき、あげく顧客の維持・確保のための折伏に挺身させられる学会員。お気の毒としかいいようがない。
- 箱根駅伝シード権に狂喜乱舞
・1月4日付『聖教新聞』「〈第96回箱根駅伝〉創価大学が大躍進の9位 初のシード権」
「第96回東京箱根間往復大学駅伝競走が2、3日に行われ、3年ぶり3度目の挑戦となる創価大学は往路7位、復路9位で過去最高の総合9位。区間賞の1区・米満怜選手(4年)、区間新記録の10区・嶋津雄大選手(2年)をはじめ10人がタスキをつなぎ、次回大会出場のシード権(10位以内)を初めて獲得した。
創立者の池田先生は大躍進をたたえ、『大勝利おめでとう。本当によく頑張った。ありがとう』との伝言を贈った」
「榎木監督と共に、運営管理車からレースを見守った瀬上雄然総監督は感慨を込める。
『私たちスタッフも、“創価、頑張れ”との途切れることのない大声援に胸が熱くなりました。創立者をはじめ皆さんの応援が選手の力になりました。榎木監督のもと、さらに強いチームを築いていきます』」
1月5日付『聖教新聞』「〈箱根駅伝〉創価大学 皆でつないだ“心のタスキ”――プレイバック217・1キロ」
「2日午前8時。21人のランナーが一斉にスタートした。米満選手が意識していたのは、大牟田高校時代の同級生である東海大学の鬼塚選手。『絶対に負けたくない』と先頭集団で並走し続けた。激しい駆け引きにも『練習通り』と冷静に対応。18キロ地点の六郷橋で国学院大学の選手がスパートしたが、『必ず追い付ける』とチャンスを狙った。残り1キロで鬼塚選手の前に出る。国学院の背中に迫り、ラスト300メートルで抜き去った。(中略)
久保田満コーチも感慨を込めた。『創立者のお誕生日である1月2日を、スタートダッシュで飾ってくれました』」
※今年2020年を創立90周年・池田大作名誉会長の会長就任60周年の佳節と位置付ける創価学会にとって、池田氏の誕生日である1月2日と3日に開催された箱根駅伝で、創価大学がシード権を獲得したことは、佳節・誕生日を祝う一大慶事となったようだ。
もちろん努力した選手は立派であり、特に一度はシード圏外に落ちた創価大を、区間新記録で盛り返して9位に入った10区の嶋津選手は、先天性の網膜色素変性症を患っており、練習環境にも大きなハンデがあるなか、区間新の激走でシードを獲得したことは、見事だったという他ない。
ただこうした美談や偉業を、すぐに池田氏や創価学会の礼賛に利用する創価学会の姿勢がいただけない。スポーツと政治は別物と同様、スポーツと宗教も別物といいたいが、選手のモチベーションを高める要因に宗教的パッションが作用しないともいいきれない。しかし、すくなくともスポーツにおける栄光を、宗教団体や教祖・会長の名誉に繋げることだけはやめてもらいたいものだ。