2011年8月 特集/「原発の闇」に翻弄される池田大作&創価学会

破綻・無内容の池田大作「震災寄稿」
溝口 敦 ジャーナリスト

 自動マシーンが作動している(?)池田コラム

 『聖教新聞』は7月21日付の1面に、
 〈国際通信社IPSのウェブサイトにSGI会長のコラム記事 東日本大震災『復興へ創造的応戦を』〉
 という見出しを立て、池田大作氏の短文を転載している。
 内容は例により「庶民」を強調する妄言である。
 「草の根のレベルで、一人一人を大切にし、相手の心の声に耳を傾け、励まし合う庶民の連帯にこそ、不慮の災害にも崩れぬ人間の安全保障の起点があるといって、決して過言ではないだろう」
 庶民でもないあんたには言われたくないね、といった感じである。庶民の膏血を搾り取って肥え太った池田氏に、庶民について喋々する資格はない。
 池田氏は福島の原発事故にも触れ、原発推進論者を刺激しないよう、狡猾にこう記している。
 「今後の具体的な選択は、それぞれの国で多岐にわたるであろうが、再生可能エネルギーの積極的な導入や、一層の省エネルギー化を図るための技術開発や資源の節約など、新たな歴史の潮流が生まれていることは確かだ。そこには、持続可能な社会の建設へ、人類の欲望の肥大化を抑え、聡明にコントロールし、昇華させゆく価値観の確立が強く要請されている」
 彼自身が福島の原発事故を眼前に見て、脱原発に考えを改めた、とは言わない。あるいは事故にめげず、原発をさらに推進すべきだ、とも言わない。あくまでも「価値観の確立が強く要請されている」と他人ごとである。主体性なき妄言をもっともらしく吐くことで高みに立ち、指導者風な物言いをするのは笑止である。
 池田氏の文章がすべてゴーストライターの手になることは見え見えである。個性がなく、読む者に引っかかりを感じさせない。職業的なゴーストライターが文章に破綻を来さないよう、語句にこだわり、流れをよくすることだけに務めているからだ。
 池田氏の意志でこうした文章を用意し、発表しているのか、という点さえ疑わしくなる。池田氏は去年5月以来、会員大衆の前に姿を現さず、わずかに表情を欠く数葉の近影だけが池田氏が存命していることを伝えている。池田氏は発話が可能なのか、健常な思考力を保っているのか、疑えばきりがない。
 ことによると、池田氏のゴーストライターシステムは行き着くところまで行って、池田氏の意志に関わりなく作動し、池田氏なら考えそうなことや、考える必要があることを推測して文章化し、公表する自動マシーンに化しているのかもしれない。『聖教』紙での『新・人間革命』の連載など、池田氏の現状に照らして奇怪である。
 だが、自動マシーンが作動しているにしろ創価学会の退潮は覆いようがない。早い話、今回のコラム記事を配信したIPSとは、どのような組織なのか。通信社としては、とんと名を聞かない。
 IPSについて、聖教紙は麗々しく次のように紹介している。
 「世界150カ国に取材・報道のネットワークを持つ国際通信社IPS(インタープレスサービス)」「IPSから各国メディアに対して配信される。IPSジャパンのウェブサイトで公開されている日本語の全文」……。
 これを読むと、ご大層な通信社のようだが、実態は国連の傘下組織と組んで、途上国の実態や声を伝えるだけのようだ。影響力はゼロに近い。仮に世界のメディアがIPSから池田氏のコラムを転載するにしろ、転載するのはSGI傘下の機関紙ぐらいだろう。
 IPSジャパンにしろ、かなりいかがわしいイメージがある。ホームページによると、同組織はNPO法人で、所在地が東京都墨田区千歳、会長が海部俊樹元首相、顧問にアンワルル・K・チョウドリ前国連事務次長、長井浩・一美総業代表取締役、小林茂和弁護士、梅本龍一(株)関西地学協会代表取締役など。理事長は浅霧勝浩・国際協力評議会(GCC)アジア・太平洋総局次長、理事は石田尊昭・尾崎行雄記念財団事務局長、谷本晴樹「政策空間」編集委員、土屋彰・城北税理士法人代表の三人である。
 こうした雑多な組み合わせと池田氏のコラムは案外相性がいいのかもしれない。

 無内容を糊塗するための外部権威依存症

 池田氏は『ジャパンタイムズ』6月28日付にも『復興への勇気』と題して寄稿している(聖教紙7月5日付)。内容は前の『創造的応戦を』と同工異曲だが、『応戦を』ではアーノルド・トインビーから引用し、ここでは福島県出身の歴史学者で平和提唱者、米イェール大学教授だった朝河貫一(1873~1948年)の言葉を引いている。
 池田氏は信仰者のはずだが、自分の信仰とは関係のない外部世界の権威を借りるしか、自身を装飾する手がない。自分が無内容だからだ。信仰者として虚弱であることは当然で、外部権威の依存症はここで破綻を見せている。
 まず『復興への勇気』では、自分を仏法者と規定して、こう言う。
 「仏法者として追善回向の祈りを捧げるとともに、被災者の方々のご健康と無事安穏、そして被災地の復興を、ひたぶるに祈らざるにはいられない」
 仏教を信じる者の言葉としては自然だろう。だが、『応戦を』では引用したトインビーの言葉「文明というものは、次々に間断なく襲いきたる挑戦に対応することに成功することによって誕生し、成長するものである」に引きずられ、自然災害への「応戦」や「不慮の災害にも崩れぬ人間の『安全保障』の起点がある」など、猛々しく軍事的な用語を多用している。
 自然と戦うのは西洋のキリスト教徒の発想だろう。仏教徒や日本人の多くは自然と戦うのではなく、自然と共生したいと願っている。万一自然災害に遭っても、この心性に変化はなく、自然に対して応戦しようという気持ちはない。単に災害を受け入れて、動じないだけだ。
 こうした日本人の心性が震災後、世界を感心させた被災民の落ち着きと忍耐の根っこに、あったはずである。
 池田氏、あるいはゴーストライターは外部権威依存症のせいで、こうした違いを感得できない。だから同じテーマを扱いながら、態度が二分する。極論すれば、東北大震災や福島原発事故に池田氏は何も感じなかった、無関心、無感動だったことを証明しているのかもしれない。

 痛々しい「存在証明」の努力

 池田氏がトインビーとの対談の中で原発推進論者だったことは本誌6月号で乙骨正生氏が明らかにしている。池田氏は「原子力が新たな、将来性あるエネルギー源として平和的に利用されることは、喜ばしいこと」とまで原発を賞揚していた。周りに核に通じるブレーンがいず、池田氏にも先見性がなかったのだろう。彼は福島の原発事故で観点を微調整したが、前記したように脱原発には踏み切っていない。
 問題は今なぜ健康さえ覚束ない池田氏が2つのメディアに寄稿する必要があったかである。寄稿することには少なくとも2つの目的がある。1つは寄稿することで、自分の思いを広く伝えたいという目的を持つ。だが、寄稿文が無内容だったことは前記した通りであり、池田氏が何も寄稿する必要はなかった。しかも発表メディアは影響力に難があり、聖教紙への転載だけが学会員に到達するルートになった可能性がある。
 2つ目は寄稿したという事実をアピールする目的を持つ。池田氏、あるいは創価学会官僚の目的はこれだったのかもしれない。池田氏は今なお大きな社会事象に対して、対外的に意見表明する力や権威を持つ。そのことの証明としての寄稿である。
 すでにポスト池田について検討が加えられている中で、こうした努力が続けられていることは痛々しい。そうまでしないと池田氏の権威は風化の危機にあるのか。しかも池田氏を賞揚する努力は池田氏の死とともに無に帰し、誰も個人崇拝という権威を継承する者はいない。諸行無常である。

溝口 敦(みぞぐち・あつし)ノンフィクション作家、フリージャーナリスト。1942年生まれ。早稲田大学政経学部卒。出版社勤務などを経てフリーに。宗教関係をはじめ幅広く社会問題を扱う。『食肉の帝王』(講談社プラスα文庫)で第25回講談社ノンフィクション賞、日本ジャーナリスト会議賞、編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム大賞の3賞同時受賞。『堕ちた庶民の神』(三一書房)『歌舞伎町・ヤバさの真相』(文春新書)『パチンコ「30兆円の闇」』『生贄の祀り』『あぶない食品』(小学館文庫)『武富士 サラ金の帝王』『池田大作「権力者」の構造』『中国「黒社会」の掟』『細木数子 魔女の履歴書』(講談社プラスα文庫)など著書多数。

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