2005-2-15

特集/SGIの日「池田提言」と『中公』誌宗教特集
『中公』特集の奇妙な共通項 オウムの教訓をどう語るか

本誌編集部

あたかも「創価学会御用達?」の様相を

 『中央公論』2月号が「曲がり角に立つ日本宗教」と題し、47ページに及ぶ特集を組んでいる。
 冒頭の総論的論文は、山折哲雄・国際日本文化研究所長の「戦後の精神的空白と創価学会」。次いで評論家の島田裕巳、宮崎哲弥の両氏と上田紀行・東京工大助教授による座談会で、「迷える現代人を救う可能性は『新生仏教』にしかない」と論じている。これに秋谷栄之助・創価学会会長と、寺内大吉・増上寺法主(小説家)のインタビューがつづき、河合隼雄・文化庁長官が「『宗教性』こそが現代を生きる日本人の不安を解消するのだ」と説く。特集はそんな構成である。
 この登場人物と構成を見るだけで、おおよその見当がついてしまう。特集は「オウム事件から10年」をテーマにしているが、論じているものの大半は仏教論である。さらに煎じ詰めれば既成仏教の停滞と、その中での創価学会の「積極果敢」な活動ぶり。
 それを受けて秋谷氏が語る。「既成仏教のパワーが落ちた」が、創価学会には「一人一人の『人間革命』によるエネルギーと「温かい人間関係、精神的な連帯感」がある。「公明党と創価学会の関係を『政教一致だ』と批判するのは誤り」だ。学会や池田大作名誉会長への批判は「事実無根のスキャンダルをでっちあげ」たものであり、「こうした謀略は絶対に許せない」とまさに言いたい放題である。
 つづく寺内大吉インタビューは「葬式こそ、坊主の正念場だ」。秋谷インタビューとのバランスどりとしか言えないような扱いである。
 そこで、いくつかの奇妙な事実に気付かされる。『中央公論』は03年9月号でも宗教特集「『政教分離』を柔軟に考える」を組んだ。このときの構成もよく似ている。学者3人が座談会をし、宗教界から2人のインタビュー。野崎勲・創価学会副会長(当時)と、宮澤佳廣、神社本庁渉外部長の2人である。
 学者座談会が「宗教団体が政治的な権威を振るうことはいけないとする人もいますが、それはかなり無理があります」「(学会は)スキャンダル報道で批判する。そういう次元の団体じゃない」と語り、それを受けて野崎氏が好き放題に語る。神社本庁の宮澤氏はさしずめ、今回の寺内氏の役まわりだろう。
 2つの特集の奇妙な共通項は掲載のタイミングにもある。前回の特集は総選挙(03年11月)の直前だった。政権に参加した公明党と、それを通して影響力拡大をめざす創価学会のあり様が、厳しく問われていた。そのさなかに「柔軟な政教分離」論を特集したのである。そして今回、学会・公明党が国政選挙並みに重視する東京都議選をま近に控えている。そのさなかに、学会パワーの正当性を正面から打ち出す特集を組んだ。

創価学会シンパで誌面を構成

 奇妙な共通項はまだある。創価学会系月刊誌『第三文明』が同じ2月号で、『中公』と同じく、オウム事件10年をキーワードにして「『日本の仏教』小百科」なる特集企画を載せている。企画それ自体は日本仏教の歴史や各宗派のデータなど、ごく基礎的な知識を提供しているのにすぎないが、「寺院側も『葬式仏教』と揶揄されるような形骸化した状況」とか「『インチキはインチキ』を見抜く眼が必要だ」「(宗教界はいま)淘汰の時を迎えている」と、押さえどころはさりげなく押さえている。
 それだけではない。同誌はこの特別企画に加えて「仏教よ、初志へ還れ」なるインタビュー記事を掲載。話すのは『中公』特集の座談会に登場する宮崎哲弥氏なのだ。そのなかで宮崎氏は「旧来の伝統仏教に関して言えば、完全に『家の仏教』、俗にいう葬式仏教になっています」とし、「『生存そのものの苦しみ』を解く仏教のあり方が、実は、これからの社会に意味を持つ」と説く。そして『中公』特集で秋谷会長が「本来『生きる力』を与えることが宗教の役割」と語る。見事な連携プレーと見るのは、うがちすぎか。
 まだある。『第三文明』1月号の特別企画には、同じ『中公』座談会メンバーの島田裕巳氏が登場しているのだ。島田氏は昨年6月に『創価学会』(新潮新書)を発行した。学会ウォッチャーたちが「これなら学会広報室も文句を言わないだろう」と評した本である。島田氏は同書で「(これまでの学会に関する書物の)多くは、創価学会のスキャンダルを暴こうとするもので、客観的な立場から創価学会についての情報を提供するものにはなっていない」「学者による創価学会研究は、ほとんど行われなくなっていく」と書いている。
『中公』特集にはもう1人、落としてはならない人物が登場している。河合隼雄・文化庁長官である。ユング心理学の研究者で国際日本文化研究センターの元所長。つまり、同特集の冒頭論文を書いた山折哲雄氏の恊謾y揩ノ当たる。
 この河合氏、知る人ぞ知る創価学会シンパである。70年代初期から『第三文明』の連載を担当し、『河合隼雄全対話集』10巻も同社から出している。創価学会に怦轤トられた揩ニいっても過言ではない。『中公』特集は、このような人々によって構成されているのだ。

「オウム」での過ちをくり返すのか

 山折哲雄氏は冒頭論文でいきなり、「創価学会の動きに、変貌のきざしがあらわれている」と書く。その論拠は、学会刊行物に「ガンディー、ナポレオン、ゲーテへの言及が目立っている」ことにある。
 ガンディーの非暴力平和運動を「くり返し顕彰し宣伝してきた点で、創価学会はその先頭に立ってきたといっていい」。ナポレオンへの関心は「もしもそこに、戦後日本社会における『旧体制』の一掃、といった価値感がひそんでいるとすれば、うなずけないわけでもない」……。
 山折氏はこう書く。
「もちろん、確かなことはわからない。けれども、近ごろ創価学会の刊行物をみていて、オヤッと思うことがないではない。それが急回転な方針であるのかどうか。確かめるすべはないのだが」
 わからなければ、自分で調べればいいではないか。確かめるすべはいくらもある。早い話、「聖教新聞」にガンディーが登場するとき、必ずといっていいほど池田大作氏の名がならんで登場する。ガンディーに名を借りて池田礼讃をはかっているとは考えないのだろうか。ナポレオンなど、池田氏の“英雄好み”は有名だ。ゲーテにしろ誰にしろ、東西の賢人の言葉を無秩序に引用して「池田スピーチ」に仕上げる手法は、いまに始まったものではない。そもそも「もしそこに……とすれば」というような仮説を前提にして論じるというやり方は、学者としていかがなものか。創価学会の、学会批判者や脱会者に対する人身攻撃は、ガンディーの非暴力平和運動とは相容れない。そんな事実も、少し調べればわかることだ。
 山折氏はさらに、学会の「折伏大行進」から公明党結成、政治進出の動きを「積極的かつ果敢」なものとする。また、学会が「外に向かう折伏運動から内へ向かう信仰の強調と継承という転換」をはかったことが、日蓮正宗との関係悪化につながったと説く。しかしここでも、それを裏付ける資料も論拠も示されない。
 座談会で島田氏は、「創価学会が日本を牛耳っているかのごとく考えられて」いるけれど「実は創価学会のほうが選挙をやらざるをえないところに追い込まれている」などと、信仰で結ばれた信者を政治や選挙に利用することの是非にまでは踏み込まない。そして「結局、オウム事件について語るかどうかが大事なんです。あれを語らない人は、いま現代的な問題を考えられない」と結論づける。
 では、オウム事件をどう「語る」のか。10数年前、山梨県上九一色村の人々も、信者の家族も、弁護士たちも生命がけでオウムと闘った。そのとき、一部学者・文化人やマスコミは、これら戦う人々に目を向けなかった。逆に、麻原彰晃と対談し、彼らをもちあげる文章を書いた。サリン事件に至る彼らを後押ししたといわれても仕方ない。そんな学者のなかに島田氏や山折氏らもいたのではないか。「(麻原は)思っていた以上に理性的な人物」「仏教の伝統を正しく受け継いでいる」と書いたのは、当時日本女子大助教授の島田氏である。
 オウムの出版物を無批判に読んだり、オウム外報部(広報部)おしきせのコースを見学しただけでは、その実態はわからない。その教訓を、どう「語った」のか。いま、その過ちをくり返しているように思えてならない。

 TOPページへもどる