2005-2-1

特集/池田かね夫人礼讃本『香峯子抄』の虚実

インタビュー/原島嵩・元創価学会教学部長

恩人の名を記載しない「不知恩本」
ポスト池田の不安が生んだ『香峯子抄』

夫人と子息のみに許される自分史出版

――今年、創価学会は創立75周年。その年頭の1月2日には池田大作氏が77歳の喜寿を迎えました。現在は健康状態が良好なようですが、一昨年には倒れ、一時、療養による休養を余儀なくされました。ポスト池田大作に向けての体制整備が急務なわけですが、そうした時期に『香峯子抄』が出版された意味合いをどの様にお考えでしょうか。
 原島 何よりかねさんのカリスマ化でしょうね。今までは池田大作さん一人がカリスマでしたが、今後はかねさん、そして息子の博正、尊弘両氏を含む池田家全体のカリスマ化を図るということでしょう。その狙いは創価学会の財産を池田家のものとして存続させたいということです。教学部長時代、私は側近として日常的に池田さんの言動に触れていましたが、池田さんはよく「創価学会は俺のもの」と発言していました。その財産を秋谷会長などの他人には渡したくない。それが池田さんの本音なのです。
 ではなぜこの時期の出版かと言うと、池田さんの年齢が一つのポイントです。もう喜寿ですよ。元気な様子を見せていますが、一昨年には「創価学会の日」と位置づけている自らの会長就任記念日の5月3日に、病気で倒れて記念行事に出席できなかった。池田さんも人間ですからいつかは死ぬ運命にあリます。そこで目の黒いうちに自分や池田家を創価学会の中にあって永続的なものとする盤石な体制を確立したい、今回の『香峯子抄』の出版はその布石以外のなにものでもありません。
 ――創価学会は世襲はしないと池田氏は再三、発言しています。また、子どもたちには自分の好きな仕事をさせると言っていた時期もありました。しかし長男の博正氏ないしは三男の尊弘氏による世襲制も取り沙汰されています。
 原島 次男の城久氏が生きている時には、城久氏を後継者に擬したこともありました。もっとも池田さんというのは非常に猜疑心の強い人間ですから、子どもさえ信用できない。だからある時は博正氏、ある時は城久氏と、子どもたちを天秤にかけ競わせていました。その挙げ句、城久氏は強度のストレスで胃に穴のあく胃穿孔で29歳の若さで急死してしまった。本当にお気の毒です。
 その結果、結局は、SGI(創価学会インタナショナル)を長男の博正氏に継がせ、創価学会の財産もSGIに移行させるというところに落ち着いたようです。しかし、博正氏は線が細く、関西創価学園の教え子である女性と結婚してしまい、怒った池田さんが結婚式に出席しなかったように、必ずしも池田さんべったりの人間ではないので、不安なんでしょう。その点、長年、池田さんに仕えてきたかねさんなら安心。そこでかねさんをカリスマ化させることにした。そうしておいてかねさんの後見の下に博正氏をSGIの会長に仕立て上げ、創価学会を池田一族で固める腹づもりなのでしょう。
 ――池田夫人かねさんは婦人部に影響力が大きい。それがかね夫人宣揚の理由だともいわれていますが。
 原島 創価学会を支えているのは婦人部です。集金・集票、聖教新聞の啓蒙、折伏と、すべての活動において婦人部がその核となっている。その婦人部の最高幹部の上に君臨しているのが「奥様」。すなわちかねさんなんです。といってもかねさんには役職はない。「奥様」というのが、唯一の役職です。
 おかしな話なんですが、ここ数年は、池田氏とペアでさまざまな賞や名誉称号などを受け、その立場は組織の役職上では池田さんに次ぐナンバー2の秋谷会長よりランクが上であるということを、事あるごとに見せつけています。
 秋谷さんは会長だけれども名誉称号をもらうなどということはもちろん、『秋谷抄』などという本を出すことも許されない。池田さんが会長を辞任し名誉会長となった際に後任の会長に就任した北条さんにいたっては、著書さえ出していないんじゃないかな。ところがかねさんは『香峯子抄』という名前をつけた書籍を、そして博正氏は昨年『青春の道 私の若き日の記録』を出版している。その中で博正氏は自分と父母が一体であることを強調していますが、こうした本が出せるのは池田家だけなんです。
 その意味で今回の『香峯子抄』は、昨年の博正氏の『青春の道』と並び、世襲体制に向けての池田家宣揚の布石であり、池田大作さんならびにかねさん、博正氏が特別な存在だということを示すメルクマールなのです。

 ――その『香峯子抄』の内容についてなんですが、白木一家が創価学会に入会するくだりで、「隣の人」から勧められたと記述されています。ここで「隣の人」と記述されているのは、原島さん一家ですよね。
 原島 その通りです。我が家とかねさんの実家である白木家はお隣さんで、私の妹が赤ん坊のころはかねさんが「赤ちゃん貸して」などと、よく遊びに来ていました。
 ――本来なら創価学会に入れてくれた恩人。当然、名前を出さなければならない。しかも原島さんの父親である原島宏治氏は、池田大作氏を戸田会長亡き後、多くの反対がある中で創価学会の会長に担ぎ上げた中心人物で、その後、創価学会の理事長や公明党の初代委員長を務めた、創価学会ならびに池田大作氏にとっては大恩人であり大功労者。にもかかわらず名前を出さない。おかしな話ですね。
 原島 私が創価学会に造反し、池田大作さんに弓を引いたから、絶対、原島の名前を出したくなかったんでしょうね(笑い)。
 いまザッと見ただけですが、『香峯子抄』の内容について一言で言えば、自分の夫である池田さんを礼讃するとともに、自分や子息らが特別の存在であることをほのめかしています。その一方で、自分たちの都合の悪い事実にはフタをするという創価学会の隠蔽体質が随所に出ています。
 例えば、池田大作さんとかねさんの仲人、媒酌人は小泉隆さんです。戸田会長時代の理事長で、都議会議員を務めた池田さんの先輩幹部でした。その仲人の名前が記載されていません。というのも池田大作さんの会長就任に、当時理事長だった小泉さんが反対したからです。そのため、小泉さんは池田さんが会長になってから副理事長に降格されるなど冷遇されたのですが、『香峯子抄』ではその名前すら記載されていない。
 創価学会は池田さんに背いた竹入義勝元公明党委員長や山崎正友元顧問弁護士、龍年光元都議会公明党幹事長や私などを「不知恩の輩」「忘恩の輩」などと誹謗し、「恩知らずは畜生より劣る」などと罵詈していますが、いったい恩知らずはどっちなのでしょうか。恩人の名前を消している『香峯子抄』こそ「恩知らず本」と言えるのではないでしょうか。

 ――原島さんはお隣同士で白木かねさんを間近に見てきたわけですが、かねさんというのはどういう人だったんでしょうか。
 原島 まあ、素直な普通のお嬢さん。私も小さいころは「かねちゃん、かねちゃん」と慕っていました。決して才気煥発というタイプじゃなかったですね。

 よく泣かされていた池田夫人

 ――『香峯子抄』の中では、池田大作氏との恋愛が夢物語のように記載されていますが。本当はどうだったんでしょうか。
 原島 私も小さかったからよくは分かりません(笑い)。ただ『香峯子抄』の中で語られているように、池田氏が立派な青年だったので、自分の方から積極的にアプローチしたとは思えません。むしろかねさんの父親が砂糖卸会社の重役であり、学会員の中では比較的裕福で有力者だったことに目を付けた池田さんが、一生懸命かねさんにアプローチしたんじゃないんでしょうか。当時の白木家は、巷間いわれるほどの資産家ではありませんでした。しかし貧乏人の多かった当時の学会員の意識では、“重役”の家というのは相当な資産家に思えたわけです。香峯子さんはそこの令嬢ですから、池田さんにとっては羨望の的だったんじゃないでしょうかね。
 ――二人は昭和27年の5月3日に結婚します。『香峯子抄』ではかねさんがいかに池田大作氏を支えていたか、その内助の功ぶりが、写真付きでこれでもか、これでもかと強調されています。そのようなくだりに会長となり激務の池田氏の邪魔にならず、熟睡できるよう廊下で寝ていたなどという記述もあります。池田氏の最側近として池田家にもしょっちゅう出入りしていた原島さんの眼には、池田夫妻の関係、かねさんの様子はどのように映りましたか。
 原島 廊下で寝ていたのではなく、寝かされていたんです。それを美談にしたてるとは……。まあ、家の中で夫と同衾できないことをわざわざ弁明するのもおかしな話ですよ。
 だいたい池田さんは地方や海外に出張する際、夫人は連れていかず、身の回りの世話は池田さんの女性スキャンダルが審理された月刊ペン裁判の差し戻し一審の判決の中で、裁判所が「会長職にあった池田の秘書的事務を担当する部局には、常に妙齢の女性がいて、出張先も同行の上身近に仕え、夜遅くまで身辺の世話をする等の実状にあることは、いかに宗教団体内部のこととは言いながら、世間一般の常識からすれば配慮不足で通常の勤務状態でないように見える」と指摘しているように、お気に入りの女性にまかせていました。その意味でも普通の夫婦関係ではなかった。
 『香峯子抄』では、結婚生活は幸せだったと書いていますが、どうでしょうか。よくかねさんは池田さんから怒鳴られたり、叱られたりして、泣いていました。渋谷にあった分室で泣いていた姿をよく憶えています。また私の母(原島精子創価学会初代婦人部長)は、池田さんが会長に就任した後、かねさんの教学の家庭教師として自宅で御書などを教えたのですが、その母も、よくかねさんが泣いていたと話していました。

 ――『香峯子抄』には、自宅の台所でかね夫人が料理をし、その手料理を池田大作氏が食べている写真が掲載されていますが、池田氏が自宅で飯を食うことなどあったんですか。
 原島 池田大作さんには「白雲会」という専用の料理人グループがいました。だから結婚当初の若い時分は別として、かねさんの手料理を池田さんが食べる、それも写真のようにいい齢になってから池田さんがかねさんの手料理を食べるなんてことはほとんどなかったと思いますよ。池田さんが創価学会の外郭企業の社長たちと月に1回懇談していた「社長会」の記録を見てもらえれば分かりますが、会場は一流の料亭やレストランです。学会本部のすぐ側に高級なしゃぶしゃぶ料亭・光亭がありましたが、美食家の池田さんはここなどに入り浸っていました。
 また池田さんの衣類の洗濯も、池田さんの身の回りの世話をする第一庶務の女性たちがやっていました。ですからかねさんは妻であり専業主婦でありながら、夫の世話ができない。そんなこともあって子どものPTA活動などに熱心に取り組んでいました。
 ――いまは「奥様」として幹部会などで婦人部の最上席に座っていますが、池田大作氏が会長に就任した当初は、そうしたことはいっさいありませんでしたね。
 原島 会合には全く出ませんでした。しかし昭和40年代に入ってしばらくしてから宗門への挨拶の時などに、池田さんが意図的にかねさんを戸田会長夫人の幾さんより上座に座らせるようにしていました。
 しかし決定的に変わったのは、昭和51年に発刊された月刊ペンで池田さんの女性スキャンダルが取りざたされ、裁判闘争になってから以後なのではないでしょうか。それ以前から海外出張には夫人も同伴するようになっていましたが、月刊ペン裁判以後、より円満な夫婦仲をアピールする必要に迫られたのです。夫人が会合等に出席し、婦人部長よりも上座に座るようになっていったのもこの頃からだったんじゃないでしょうか。

 ――多年にわたって横暴な池田氏の言動に耐え、表に出ることもなかったかねさんが、今日、池田氏と並ぶ特別な存在として自らを誇示するように変わっていった背景には、どのような理由が考えられますか。
 原島 我慢するのが馬鹿らしくなって開き直ったんじゃないですか。その契機の一つが池田さんの女性スキャンダルが取りざたされた月刊ペン事件だったのでは。
 当時、池田さんはよく「香峯子は我が家の共産党だ。何でも反対する」と、こぼしていました(笑い)。たぶん開き直ったかねさんは池田さんに強く出るようになったんですね。そして、池田さんもかねさんを立てなくてはならなくなったんでしょう。
 その上で、莫大な金力・権力を有する創価学会の中でおもしろおかしく生きることに目覚めたのではないですか。私が昭和54年に創価学会に造反した後、母が学会施設でかねさんの履き物を揃えところ、かねさんは母が揃えた履き物をはかず、「原島嵩は無間地獄に墜ちる」と発言したそうです。もちろん母の葬儀にもかねさんは参列はもとより弔電すらよこしませんでした。あのおとなしかったかねさんがと思うと、つくづく人間は変わる、それも悪しく変わりえるものだと思います。

 ――今般、『香峯子抄』を発刊し、かね夫人を祭り上げているわけですが、かね夫人のカリスマ化を図らねばならないところに池田氏の危機意識が投影されているという見方も可能ですね。
 原島 やはりポスト池田大作体制が不安なんでしょう。冒頭でも申し上げたように池田さんはたいへん猜疑心の強い人です。自分が生きている間は、池田家の前にひれ伏している幹部たちも、自分が先輩幹部を差し置いて会長のイスを簒奪したように、ミニ池田大作の揃っている創価学会ではどのようなことが起こるかわからない。もし権力闘争が生じたら、果たして子息たちが勝ち抜けるのか、とても不安なんでしょう。
 だから創価学会の権力基盤である婦人部を抑えるためにかねさんのカリスマ化をはかり、その力で池田家の永続化をはかりたい。
 しかし平凡な一女性だったかねさんにとってそれは幸せなことなのかどうか。『香峯子抄』では世界一の幸福者であるかのように記述されていますが、それは虚飾であり虚像です。今後とも虚飾と虚像の中で生きていくことが幸せなのでしょうか。
 そしてまた、そうした虚飾に満ちた本を多くの学会員が買わされる。その学会員も気の毒だと思います。

原島嵩(はらしま・たかし)氏
創価学会教学部長・総務・聖教新聞論説主幹・創価大学理事・池田大作氏の著述を代作する「特別書籍」の責任者などを歴任。原島宏治創価学会理事長・公明党初代委員長の子息。池田(白木)かねさんとは、実家が隣どうしだったことから、幼少時から親交を持ち、池田大作夫人となってから以後も、池田大作氏の側近幹部として、その夫婦生活の実態を間近で見てきた。

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